夢と映画日記

どちらも見聞きしたことを語るうわごとにすぎない

映画『ドランクヌードル』感想

ゲイの美大生が叔父の家とギャラリーの留守番をしつつ、ウーバーをやっているひとりの男と関係を持ち、過去に関係を持った山に住む刺繍絵画を製作している老人との思い出が挟まり、結構めちゃくちゃな経験を追体験する。最終的に李白の詩が引用され、蘭亭みたいな曲がりくねった川のある庭園で美大生がひとり寝転んで静かに幕を閉じる。

画面内で目を遊ばせる余裕がある程度に、1つのシーンを映す時間のかけ方に余白がある。そこが良い。めちゃくちゃな展開だけど、積極的に細部まで眺めたいと思うくらい、画面内に整頓と混雑が同居している。風景が美しい。

空の色から机の端まで眺め回したい気持ちと、ただ全体をぼんやりと眺めていたい気持ち、どちらも美しいものを見ている時に同時に生まれる。

 

話の軸となるゲイの皆さんのあり方は、普通の恋愛のバリエーションとしてではなく、古典的な倒錯的性愛として描かれていた(SM、ハッテン場)ように見えた。倒錯的なのは同性愛であること自体ではなく、その発露の仕方なんだろうけど、ちょっと引くくらい変だった。森のなかを牧神パンみたいな格好をした男性が踊っていて、その男が履いているハイヒールで踏まれて嬉しいみたいなシーンがあった。倒錯的な性愛の向こうに李白的な忘我の境地があったのだろうか……?

李白といえば酒飲みで有名で、スケールの大きい夢幻的な表現に秀でている。それを酒に酔ったときの陶酔的な快の表現と捉えると、映画との繋がりが若干見えてくる。

映画のタイトルである「ドランクヌードル」とは、タイの二日酔いを覚ますと言われる麺料理「パッキーマオ(酔っ払い麺)」のこと。この名前は、倒錯的な性愛という酔いから、美大生の彼が脱出し、覚醒するという暗示のように思える。

覚醒するならなぜ最後に李白の詩を持ってくる必要があったのか。そもそも本当に彼は倒錯的な性愛から脱したのか。倒錯的な性愛への一時的な熱狂と二日酔いがさめ、あらためて身を浸すような、性愛に陶酔し直すような心持ちの変化を表現していたのかもしれない。

引用された李白の詩の解釈をしたかったが、詩を忘れてしまった。惜しいことした。

夢日記2026/04/10

今日世界が終わるので、ふと外に出てみる。

コンビニ?で雑談をする。店員なわけがない知人男性が店員として現れたので、「こんなことしてる場合じゃない、帰ってください」と言うものの聞き入れてもらえない。女は襲われんように早く帰れよ、と言い残してコンビニを出る。不謹慎なこと言うなと怒声が追ってくる。

コンビニを出ると靴が土に埋まっていて、土建屋のおじさんが掘り出してくれた。そのまま土建屋のおじさんに娯楽本を貸してもらって読みふける。いくつかは自分も持っている本で、これならこの本だけ読んで残りは家にある自分のを読もう、と思った。

友人と、2人目の知人にばったり会う。友人と縁側に腰掛けて話している間に、空から赤い火球がいくつも降ってきた。本当に終わるんだなあと思って家に帰った。

いつの間にか大学の友達がみんなこの部屋に集まってきている。最後はこのみんなで過ごすんだ、嬉しい。

外は渦巻く空と、その下でまだ普通にうろついている若者、車がいる。明日が普通に来るように見える。

明日の朝ごはんを買いに行きたいが、手元にスマホしかない。現金がないと不安だ。

朝ごはんを買いに行く道連れを募集しようと立ち上がると同時に、玄関がガタガタっと動いて、◯くろーおじさんが銃を構えて駆け寄ってきた。銃を連射している。銃からはパンが発射されている。

みんな◯くろーおじさんにパンを撃たれて死んだ。自分はツナマヨパンを眉間に打たれるが、柔らかいので死ななかった。しかしうつ伏せで死んだふりをする。◯くろーおじさんが気づいて足や背中を追い撃ちしてくるも、やはり柔らかいので効かない。

パンを撃たれて死んでしまった友人の痛みを想像しながら眠りに落ちる。

目が覚めたら誰もいない、明るくて眩しい何もない部屋にいた。世界は終わらなかった?

LINEを開いたら、3人目の知人とLINE通話が繋がった。

もしもし、私です、私です、と必死で話しかけるも、聞こえているのかいないのか、せせら笑う声が聞こえる。

一瞬スマホを耳から離して画面を見る。LINEにはほかの知人のアイコンもある。やっぱり世界は終わっていない?

「どなたですか?」と知人の、柔らかいが冷たい声がして電話を切られた。その知人のアカウント名を見ると大学のラジオ番組の公式アカウントで、掲示板が荒れてきたからもうやめると書いてある。そんな活動をしている人ではないのに。

みんな、わたし以外のみんなが、わたしの生きている世界と別人になってしまった。

世界は終わっていた。何にもない明るいだけの世界にひとり取り残された。

絶望が身体を襲って、その痛みで目が覚めた。

夢日記2023/10/17

仲間を殺して、かつての仲間に追われている。

広い野原を駆けていって、美術館に辿り着く。

美術館の中庭には処刑場がある。

野原にいろいろな姿態の少女がいる。

野原にへたり込んでいる少女のひとりは、胸から腹にかけて縦に3つ横に3つの穴が空いていて、そこに卵を入れている。孵卵器の少女だ。

殺し屋が追いついてくる。

女の殺し屋は、市場がなくなるんだから少女たちを殺しまくると言う。

男の殺し屋は、特に理由なく少女らを処刑しようとする。

少し時間が飛んで、少女たちはみんな野原に倒れ伏している。

ひとり残った孵卵器の少女が話す。

「私が頼んだの、みんな殺してって。何人?いち、さん、にい…気づいたら押してた、」途中から何を言っているのかわからなくなる。

喪服の集団がやってくる。異常者とされるのは自分なんだということに気づいた。

「ゆりかごのみるたんく」という言葉が最後に脳裏に浮かんだが、ポケモンのミルタンクじゃなくてもっと幻惑的でまどろむような言葉を考えたかったんだと思う。

夢日記2025/01/04

ある家の主であったおじさんの依代となり、おじさんの無念を祓う。おばさんがおじさんに対峙する。

おばさんの話す声は、童謡を歌っているようにみんなには聞こえていたらしいが、私にはおじさんに語りかける声に聞こえて、しぜん自分がおじさんとして声に出さずに返事をしていた。

声に出ないままなぜかおじさんとおばさんは対話ができて、和解していた。

カーテン越しに日光が差し込む明るい部屋でおばさんと抱き合うと、自分のなかのおじさんが溶けて消えていった。

映画『オデュッセイア』感想

原典を読んだことがあるので原作厨の顔して行った。前半の忠実さに比べて後半は省略や改変が多かった。改変後のほうが人間の物語としては良い。

『オデュッセイア』は叙事詩であり歌だから、映画の最後にオデュッセウスの物語が歌として語り継がれることに言及があったのが嬉しかった。

音楽が金属の触れ合う音やものを叩く音メインで、当時の音楽がこうだったらいいなと思った。

木馬に潜んでいた間の苦労とか、死人でぎっしりな冥府の大地とか、怪物の様相とか、原典と違うところがあるにしても、文字では曖昧になっていたところが映像で補完されたから、観た後だと原典をより豊かに読める気がする。

 

怪物のなかでもポリュペモスはルドンのキュクロプスどこいった?と思うくらい一つ目の装いでよかった。実際生まれるとしたらこんな感じかもなあ。『パンズ・ラビリンス』にこういう奴いる。原典のオデュッセウス一行が羊の腹にしがみついて逃げ出すところを見たかったし、「誰でもない」からの「俺がオデュッセウスだ」で身元がバレてポセイドンに報復を食らう自業自得の流れも見たかったけど、人間同士のやり取りには繋がらないためか省略されていた(映画では弓矢の追い打ちというそれはそれで非道な行為を働いているのも良い)。

スキュラ(スキュレ)は個人的には原典の描写が全然味しなかった(足が12本垂れ、頸が6つあり、6つの顔にはそれぞれ3列の歯がぎっしり並んでいる)ので、映像で観ることができて嬉しかった。こんな感じなんだ。空飛ぶヒトデみたい。『変身物語』では下半身に獰猛な犬が巻きついているのでまた全然違うからそっちのバージョンも気になる。

冥府の死人が生贄の血をすすったらしばし生者と会話ができるの、原典にもあるけどかなり良いシステムだと思う。供香が人が神を呼び出す釣り糸であり神の食物でもある一方で、生贄の血は人が死人を呼び出す呼び鈴であり死人の口だけを生者と同じように蘇らせ発声させる。

 

王妃は王の代わりにすらなれないのか云々、ずっと故郷に帰りたかったが神の掟(結局人間同士の約束でしかないが)を俺は破ったのに帰っていいのか云々、は現代の価値観で原典を解釈した結果としてそれもまた良い。

アテネは神の姿というより、イリオスで殺害された王女(カッサンドラ?別の王女?)の姿をしている。オデュッセウスの自責の念の現れかもしれない。ギリシア神話ほど神々が生き生きしている物語はないし、『オデュッセイア』も然りであるのに、映画にはアテネ以外の神の姿が全然出てこないので、神の話をしたいんじゃなくて人間同士の約束の話をしたいんだという姿勢が伝わってくる。雷や雨や風としてゼウスとポセイドンは現れるけど、「人が神の力で起きていると思っている現象」でしかない。神ではない。

映画ではオデュッセウスが神に抵抗することを肯定(口に出す)していたけど、人間が神に抵抗することをギリシアの神々が許してくれるわけがなくて面白い。ポセイドンの怒りで殺されそうなところを他の神に助けてもらったんじゃないんかい。反省しなさい。

イリオスの門扉をこじ開けたら外に総大将アガメムノーン王が立ってるのカッコよすぎ。ゴキブリもこのくらい堂々と家に入ってきてほしい。アガメムノーン王の鎧のデザインが本当にカッコいい。

アガメムノーンは戦争に勝つため娘(後述オレステースにとっての妹)を生贄に捧げていて、それゆえに妻クリュタイムネーストラーの心が離れて殺害された、ということになっているけど、クリュタイムネーストラーとアイギストスの不倫がカットされてるのでアガメムノーンが不憫にもなる。自分の娘を戦争のために殺害するという非道(真偽の程と当時の倫理観はさておき)を働いたから殺されて当然で、これも人間同士の掟破りの結果だという解釈なんだろう。

木馬を献上したシノーンは『アエネーイス』に出てきているらしいので確認した。『アエネーイス』ではオデュッセウスの悪口を織り交ぜつつ木馬を献上している。オデュッセウスがシノーンを騙したふうではなさそうだ。オデュッセウスが戦争に勝つために味方を騙したという掟破りエピソードにするために改変されている。

メネラオスの妻でありトロイア戦争の発端となった美女ヘレネがテレマコスに「ごめんなさい、こうなってしまったのは全て私のせい」と囁いていたけど、個人的にはヘレネにこうやって謝られると戸惑う。というのも、もともとヘレネがイリオスに行ってしまった経緯には2つの説がある。ヘレネ自身がイリオスの王子パリスに夢中になってイリオスまで自分で行ってしまったか、自分の意思ではなくパリスに拐われたか。個人的には『オレステイア』を読んでヘレネは自分の意思でパリスについていってそれを後悔もしていない、オレステースの苦しみのもとを生んだ悪人だと思っているので、映画ではしおらしくてびっくりした。これじゃオレステースが父アガメムノーンを喪って苦しんでいる一方でヘレネも自分が戦争を生んで大勢死なせたという自責の念に苦しんでいることになって、単純な因果応報譚にならない。いや、そういう憎しみの置きどころがない『オレステイア』も面白いかな。なお、映画ではヘレネの顔半分が傷ついた描写があったが、原典にあった記憶がない(多分)ので、自責の念に駆られた自傷行為という表現だったのかもしれない。

映画『開戦前夜』感想

 日米開戦の8か月前に当時の日本最高の頭脳が集められて「もし日米が対戦したら日本はどう戦うべきか」を話し合う。日本で産出可能な資源や労働力を調べ、外国のそれと比較検討した結果、日本のハード面は圧倒的に弱いことが分かる。

 

 すでに敗戦した後にいる我々からすると明らかなことではあるが、それでも1つ1つデータを積み重ねられていくと絶望が深くなる。

 特に絶望的なのは、この日本のハード面の弱さが、現代でも特に変わっていないことだ。加えて、与えられた予算は使い切らなければならないとか、作ったものは使わなければならないとか、悪い方のもったいない精神も存命だ。こんな精神性を持ってむやみに自衛隊の装備を増やしたら、「これだけ装備があるんだから使わなければ損だ」とか考え始めるんじゃないかと思ってしまう。

 

 研究所からの報告を受けて、東條は日本の国力が絶望的だと分かっていた。東條が心の拠り所としている天皇も、平和を望んでいる。しかし開戦へ向かってしまった。軍部が煽ったこととはいえ、今更好戦的な姿勢を覆すことに恥と外聞を気にしてしまったのかもしれない。やたら恥や外聞に囚われる様子が描かれていたし、日本人ってそうだよなと思う。

 戦えというのも民だし、戦うなというのも民だ。板挟みで疲弊してもいたと思う。もう何も考えたくなくて、そのままいってしまった。誰も止めてくれなかった。

 責任の所在がずっと曖昧だ。予算があるから。物資があるから。その予算や物資を用意したのは誰なんだ。誰が要求したんだ。誰が戦えと言ってるんだ。戦争は誰の利益になるんだ。

 模擬内閣の人々は忌憚のない意見を出し合って物事を変えようとしているのに対し、実際の内閣は意見を翻す=予算が減額される=担当省庁の身動きがとれなくなる、だから、のらりくらりと意見を出すのを避けていった結果、誰も間違いを指摘してくれない無責任な内閣になってしまった。

 

 一方現代は国民主権の社会で、国民に権利と責任がある。責任があるなりに現実を直視して、日本最高とは言えないけど頭を絞ろう。空気じゃなくてデータを読んで、間違っていることは間違っていると言おう。でも自分の感情の動きだけで物事の正誤を決めてはならない。あくまで事実に基づいた議論をしたい。

 「この研究所では自由闊達な議論をしてよし」と言われたとき、エリートみんながやる気に溢れて立ち上がったのがカッコよかった。ああなりたい。喜んで自由闊達な議論をして、事実から未来を作りたい。

 実証主義の精神で現実的な未来を計画したい。理想は高く掲げたいけれど、その理想を実現するために動き出した後に実現は絶望的だと分かっても、引き返せるようでありたい。

映画『アン・リー はじまりの物語』感想

 現代に残る2名の信徒がどういう思惑でこの映画に協力しているのか分からないが、この映画はシェイカーという宗派のはじまりの物語であり、現在シェイカーが終わろうとしている、という意味で終わりの物語でもあると感じた。

 

 シェイカーの第一印象は邪教だった。身体を震わせながら金切り声を上げたり歌ったり叫んだり、家のなかで大人数で踊り回って、自分の「罪」を告白し、「罪深い」自分と向き合う。日本にはほとんど広まっていない信仰の仕方だったから、私には邪教と映った。宗教ってもっと静かで穏やかなものじゃない?

 それに、布教の仕方があまりに強引だったので、迫害されるのも当然ではないかとすら思った。植民から間もないアメリカだとしても、そこにはすでに村があるのに、村のなかにシェイカーの施設という「村」をつくろうとしたら、それは侵略同然の行いで、反発をくらうものだ。

 性行為の全面禁止と労働の奨励がシェイカーの主な規則だが、これを全世界に広めると人類は滅亡する。村社会の男たちの愉しみ(嫌味で言っている)も滅亡する。シェイカーの理念に共鳴する、全ての村がシェイカーになる必要はないし、逆にシェイカーが圧殺される理由もないわけだが、シェイカーがズカズカ踏み込んでいったから余計に迫害されたのではないか……と思った。

 現代日本で高みの見物をしているから言えることかもしれないが、住民から反発をくらった理由を考えて、シェイカーの活動形態を村社会に溶け込めるように調整するべきだったのではないかと思う。

 でもアン・リーにとってシェイカーの活動は自分と他人の救済であり、自分とシェイカーへの迫害は内省を促す薬ではなく、自分を試す苦難でしかない。アン・リーは信念という名の強情を突き通すしかなかった。

 アン・リーの生涯は悲惨なもので、それを救ってくれたのがシェイカーだった。面前での両親の性行為というDV、度重なる子どもの死、夫の無理解などから性行為への嫌悪感を強め、精神病院に入院するも、シェイカーの仲間に請われて社会復帰する。シェイカーの活動が彼女の悲惨さを、原罪に対する罰や試練の枠組みに落とし込み、彼女を救った。

 いや、実子4人が4人とも生後1年未満で亡くなっているのは3人目辺りからさすがに育て方が下手なのではないかと思ったが、自分に原因があるとは考えていなさそうな点で、当時の社会の衛生観念などに原因があったのかもしれない。

 アン・リーの逸話は凄かった。国教会に乗り込んでいって強引にシェイカーの話をし始め、当たり前に教会を追い出されて裁判にかけられる。その裁判の席で12か国語か72か国語を話したとか、独房で衰弱していたら今までになくはっきりと宗教的幻覚を見たとか、あまりにも逸話らしい逸話なので、キリスト教の逸話のセンスってどの宗派も同じなのかもしれない。

 なんで同じ神を信仰して同じような逸話を持っているのに宗派同士で争ってるんだ。信仰の仕方の違いしかないじゃないか。メソッドが違うだけで仲違いする必要なんかどこにあるんだ。箸を使ってもフォークを使っても、ご飯が食べられたら何でもいいのに、信仰はそんなに柔軟じゃないらしい。その信仰の仕方じゃないと救われない、という人が多いのかもしれないな。

 

 本作を観てシェイカーのあり方、ひいてはキリスト教のあり方に疑問を持つことになってしまった。しかし、疑問があるとしても、宗教によって救われたい人がいて、実際救われていて、そこから引きずり出すことが本人にとって救いではないなら、放っておいたほうがいい。

 今まで社会に苦しめられてきた女性たちも、シェイカーが来たことで救われただろう。実子を殺すことを考えてしまう、と告白していた女性は、シェイカーに出会わなければ本当に子殺しをしてしまっていただろう。

 酒や、薬や、人間や、ゲームや、その他様々なものへの依存と、信仰は似ている。人は何かから救われるために、何かに依存する。依存先から出ていきたい人間を手助けすることはできるが、出ていきたくない人間を無理やり外に連れ出すことはできないし、する必要はない。無理やり現実を見せつけるより、勝手に救われていてほしい。

 シェイカーも、ほかの宗派も、必要とする人がいる以上、めげずに活動を続けたほうがいい。逆に言えば、現在、信徒が大いに減っているけれども、信仰によって救われなければ生きていけない人が減っている、ととらえれば、よいことと思えるのではないだろうか。

 私が、宗教が組織立っていない世界に生きている人間だからそう思うのだろうか? 組織のなかにいたら、自分が住んでいる世界の崩壊のように感じるのかもしれない。