現代に残る2名の信徒がどういう思惑でこの映画に協力しているのか分からないが、この映画はシェイカーという宗派のはじまりの物語であり、現在シェイカーが終わろうとしている、という意味で終わりの物語でもあると感じた。
シェイカーの第一印象は邪教だった。身体を震わせながら金切り声を上げたり歌ったり叫んだり、家のなかで大人数で踊り回って、自分の「罪」を告白し、「罪深い」自分と向き合う。日本にはほとんど広まっていない信仰の仕方だったから、私には邪教と映った。宗教ってもっと静かで穏やかなものじゃない?
それに、布教の仕方があまりに強引だったので、迫害されるのも当然ではないかとすら思った。植民から間もないアメリカだとしても、そこにはすでに村があるのに、村のなかにシェイカーの施設という「村」をつくろうとしたら、それは侵略同然の行いで、反発をくらうものだ。
性行為の全面禁止と労働の奨励がシェイカーの主な規則だが、これを全世界に広めると人類は滅亡する。村社会の男たちの愉しみ(嫌味で言っている)も滅亡する。シェイカーの理念に共鳴する、全ての村がシェイカーになる必要はないし、逆にシェイカーが圧殺される理由もないわけだが、シェイカーがズカズカ踏み込んでいったから余計に迫害されたのではないか……と思った。
現代日本で高みの見物をしているから言えることかもしれないが、住民から反発をくらった理由を考えて、シェイカーの活動形態を村社会に溶け込めるように調整するべきだったのではないかと思う。
でもアン・リーにとってシェイカーの活動は自分と他人の救済であり、自分とシェイカーへの迫害は内省を促す薬ではなく、自分を試す苦難でしかない。アン・リーは信念という名の強情を突き通すしかなかった。
アン・リーの生涯は悲惨なもので、それを救ってくれたのがシェイカーだった。面前での両親の性行為というDV、度重なる子どもの死、夫の無理解などから性行為への嫌悪感を強め、精神病院に入院するも、シェイカーの仲間に請われて社会復帰する。シェイカーの活動が彼女の悲惨さを、原罪に対する罰や試練の枠組みに落とし込み、彼女を救った。
いや、実子4人が4人とも生後1年未満で亡くなっているのは3人目辺りからさすがに育て方が下手なのではないかと思ったが、自分に原因があるとは考えていなさそうな点で、当時の社会の衛生観念などに原因があったのかもしれない。
アン・リーの逸話は凄かった。国教会に乗り込んでいって強引にシェイカーの話をし始め、当たり前に教会を追い出されて裁判にかけられる。その裁判の席で12か国語か72か国語を話したとか、独房で衰弱していたら今までになくはっきりと宗教的幻覚を見たとか、あまりにも逸話らしい逸話なので、キリスト教の逸話のセンスってどの宗派も同じなのかもしれない。
なんで同じ神を信仰して同じような逸話を持っているのに宗派同士で争ってるんだ。信仰の仕方の違いしかないじゃないか。メソッドが違うだけで仲違いする必要なんかどこにあるんだ。箸を使ってもフォークを使っても、ご飯が食べられたら何でもいいのに、信仰はそんなに柔軟じゃないらしい。その信仰の仕方じゃないと救われない、という人が多いのかもしれないな。
本作を観てシェイカーのあり方、ひいてはキリスト教のあり方に疑問を持つことになってしまった。しかし、疑問があるとしても、宗教によって救われたい人がいて、実際救われていて、そこから引きずり出すことが本人にとって救いではないなら、放っておいたほうがいい。
今まで社会に苦しめられてきた女性たちも、シェイカーが来たことで救われただろう。実子を殺すことを考えてしまう、と告白していた女性は、シェイカーに出会わなければ本当に子殺しをしてしまっていただろう。
酒や、薬や、人間や、ゲームや、その他様々なものへの依存と、信仰は似ている。人は何かから救われるために、何かに依存する。依存先から出ていきたい人間を手助けすることはできるが、出ていきたくない人間を無理やり外に連れ出すことはできないし、する必要はない。無理やり現実を見せつけるより、勝手に救われていてほしい。
シェイカーも、ほかの宗派も、必要とする人がいる以上、めげずに活動を続けたほうがいい。逆に言えば、現在、信徒が大いに減っているけれども、信仰によって救われなければ生きていけない人が減っている、ととらえれば、よいことと思えるのではないだろうか。
私が、宗教が組織立っていない世界に生きている人間だからそう思うのだろうか? 組織のなかにいたら、自分が住んでいる世界の崩壊のように感じるのかもしれない。