個人的には、作中で語られている「Aケア」(四肢切断)は、身体的な苦痛を和らげるために本人の同意を得て行うという点で、安楽死に似ており、むしろ安楽死以上に現実的な(現実世界で実行可能に見える)ケアだと思う。不要な四肢を切断して身体が軽くなれば、確かに残った身体でできることが増えるだろうし、被介護者の体重減による介護者の負担減は介護者にはありがたいことである。
しかし、安楽死に似ているということは、安楽死と同様の問題点がいくつかあるということであり、それらは解決することが難しい。
以下にあらすじと、作中の印象的なケースを2つ挙げる。以降で折に触れてこれらのケースについて検討していく。
※簡略化して記載しているため、実際の作中での描写とは多少異なる。
・あらすじ
『廃用身』では、麻痺等によって動かなくなり、リハビリ等による改善の見込みがなくなった四肢を、本人の同意をもとに切断する。この四肢切断手術を「Aケア」と呼ぶ。
四肢切断によって、本人の身体の総量が軽くなり、介護者が本人を持ち上げる際などの負担が減る。さらに、四肢切断との関連は不明ながら、本人の発語や認知機能に改善が見られた。いいことずくめのように見えたが、身体が軽くなって頭も回るようになったおかげか、本人が自分を虐待する介護者を殺害して自殺(ケース1)したり、自分が生きているだけで他人の迷惑になってしまうということに気づいてしまって自殺したり(ケース2)する。
「Aケア」を実行した主人公は、四肢切断というショッキングな行為や、「Aケア」を行った者が起こした殺人事件などへの社会からの批判を浴び、自分の行っていることが社会のためになっているかどうか自信が持てなくなって、自分自身の頭も「廃用身」なのだと考えて自殺に至ってしまう。
ケース1
作中では第一例として挙げられている。脳梗塞によって両足と左腕が麻痺し、今後動くようになる見込みはない。介護者である家族から日常的に虐待を受けており、このままでは殺されてしまうと感じている一方で、虐待を受けてもなお自宅で生活することに固執しており、四肢を切断することで今後の生活を身軽にしようと考え、実行する。
当初は体調が改善し、気分もよくなったと語るものの、介護者からの虐待は止まず、最終的には介護者を殺害して自身も自殺してしまう。
ケース2
認知症の母親の介護に苦しむ女性が、母親が両足を火傷したことをきっかけに、親の両足の「Aケア」を希望し、実行された。両足を切断された本人(母親)は当初、ショックにより認知症が進行したように見えたが、徐々に認知機能に改善が見られた。
しかし、最後には、認知症であったことが信じられないほど明瞭な文章で遺書をしたためて、「自分が周りに迷惑をかけ続けてしまっているから、死ぬしかない」と書き残して自殺してしまう。
「Aケア」はその方法が安楽死に似ているだけでなく、実施に伴って表出する問題も安楽死と似ている。
以下に問題点を3つ述べたい。問題に対して答えを出したいわけではないから、安易に目についた点を列挙しているように見えるかもしれない。
でも、これらの問題をどう解決したらいいのか考えることには意味がある。それは四肢切断や安楽死の是非について考えるだけでなく、現実に起きている医療・介護業界の問題について考えることでもあるからだ。
・問題点1:本人の同意が不確実であること
本人の同意なく実行されたということになってしまえば、「Aケア」はサービスではなく傷害罪に問われる。そして、作中でも語られているように、高齢者はその場の押しに流されて同意してしまうケースが多々ある。「自分の身体が不自由なせいで、家族や介護者に迷惑をかけている」という負い目が、本人の正常な判断能力を欠いてしまっていると考えられる。
実際に、主人公がケース2の認知症患者の遺書を聞く場面で、その遺書には「本当は両足を切断したくなんてなかったのに、周りに勧められて、同意してしまった」という一節がある。
また、本人が意識障害等によって同意を得られない状態にあり、配偶者の同意で四肢を切断したケースがあった。配偶者は四肢を失った本人を見て後悔していた。主人公は事前に「四肢を切断して意識障害が改善するという保証はない」と説明したにも関わらず、配偶者が切断を強く希望したのだが、配偶者はその意思がなかったかのように「先生がもっと強く制止してくれれば切断を希望しなかったのに」と身勝手な後悔を口にする。
同意したのは自分自身なのに、どうしてあとになって意見を翻してこちらを責めるのだろう? どうして切断前に「いやだ」と言えなかったのだろう? こうならないために、どうすればよかったのだろう?
紙で同意書をとっておくとか? 本人の意思が固まるまで一定期間猶予を与えるとか?
同意書を残しても、時間を与えても、後々になって「やっぱりいやでした」と言われてしまえば責められるのはケアを行った側だ。
本人の同意を第一に考えるならば、介護や医療の現場では取り返しのつくケアしかできなくなってしまう。それでやっていけるのだろうか?
・問題点2:社会的強者から社会的弱者に対して行われる、一種の暴力の行使であること
四肢切断が暴力の範疇にある行為であると考える人もいる。実際傷害罪に問われることである。ケアとして行われるものであっても、他人の身体を損壊する行為であることは変わらない。
ケース1では、介護疲れから高齢者を虐待する家族が描かれていた。介護者は本人の要望に対応せず、そのせいで本人が粗相をすると、池に沈めるなどして体罰を加える。その他日常的な暴言や暴力、介護放棄が行われていたようだ。
暴力、暴言、介護放棄は、介護者という強者から被介護者という弱者への力の行使である。被介護者に振り回され、心身ともにすり減らされる日々に疲れた介護者が、自己効力感(自分は自分の思いとおりの成果を出すことができると思う気持ち)を取り戻すために、自分を振り回す被介護者を虐待するという短絡的な方法を用いると考えられる。
主人公に本人の四肢切断を提案されたとき、家族は積極的な姿勢を示した。自分たちが楽になるという見込みから同意したと考えられるし、自分が被介護者の身体について決定権を握っているという自己効力感を得たいがために同意したとも考えられる。どちらもあったのかもしれない。
ケース2では、認知症の親の介護に苦しむ女性が、親が両足を火傷したことをきっかけに、親の両足の「Aケア」を希望し、実行された。女性は認知症の影響で攻撃的な性格になった親から、日常的に暴力を受けていた。親は足を火傷したことで肢体不自由となり、そのストレスゆえに女性への暴力がひどくなった。「Aケア」に同意したとき、女性のなかに、親に対する報復感情がなかったとは言い切れない。
・問題点3:本人の自殺衝動を助長する可能性があること
人は誰でも、自分が他人に迷惑をかけることを嫌がる。日本人は特にそうだと思う。
障害を持っていて介護者や家族に迷惑をかけてしまっている自分を顧みて、自分は不要な存在なのではないか、と不安に思う人は多い。そんなことはない、と介護者は言うけれど、心の底では邪魔な存在だと思っているのではないだろうか?と疑ってしまう。
不自由な手足を切断することで、介護者の負担が減るなら、自分が周りにかける迷惑も減るということだ。こんなに嬉しいことはない。
でも、手足を切断してなお、自分が不要な存在だと思ってしまったらどうしよう。
不要な手足を切断してまだ迷惑をかけてしまっているということは、自分の全身が不要だということなんだろうか?
ケース2の、「Aケア」以降認知症が改善した結果自殺してしまった女性は、認知症が改善したことで、正気の頭で「周りの迷惑になっている自分」を顧みて、耐えられなくなって自殺した。同様に、目に見える「自分にも他人にも邪魔な部分」を切除したあと、まだ迷惑をかけ続けているなあと思ってしまったら、ほかに「切除」できるのは自分自身の命だけだ、と考えてしまう人はいると思う。
四肢を切断しなかったら、四肢を切断した今以上に迷惑をかけ続けるだろう。しかし、今のように「不自由な手足が迷惑だったのではなく、自分自身が迷惑だったのだ」と自覚しなくてすんだんじゃないだろうか?
「Aケア」の争点は以上の3つに絞ることができると思う。
あとは、作中で「Aケア」が非難を浴びたことについて考えたい。罪を犯したわけではないのにあのように非難されたのはなぜなのか?
・倫理上の問題というより、社会的感情によって規制される
同意して「Aケア」を受け、満足している患者がいないわけではない。しかし、「Aケア」を受けた者のうち少数の者が起こした事件が、「Aケア」を受けた者全員の特性であると解釈されることで、社会は事件を起こした当人ではなく、「Aケア」を受けた者や「Aケア」を受けさせた者に非難の目を向けるようになる。
一昔前の「オタク」の排斥や、それよりずっと前の大麻が非合法化された経緯と似ている。現実では、一部のオタクが起こした事件をオタク全体の問題と捉えたり、大麻使用者の一部が起こした問題の原因を大麻に求め、大麻の使用を規制したりしてきた(実際、大麻使用者が起こす事件はもとより、大麻を扱う反社会的な団体とのつながりを持つことで健全な社会生活を送れなくなることが問題であるから、非合法化すべきではある)。
「Aケア」も同様に、四肢切断というショッキングな行為に対する生理的嫌悪と、「Aケア」を受けた患者が起こした介護者殺害及び自殺事件によって非難の声を浴びるようになり、「Aケア」全体が問題であると批判されるようになっていく。
・社会的強者としての自覚をもったほうがいい
主人公は、「若く健康で医者としての知識もある自分は、身体が不自由でいつも不安で何もわからない高齢者に対して、圧倒的に強者だ」ということに気づいている。「高齢者は他人に迷惑をかけることを異様に嫌う」ことにも気づいている。だから、他人に迷惑をかけない方法として、高齢者に「Aケア」を考案した。
強者から弱者へ手をさしのべることは、強者として生きる上では大切なことだ。自分がいつ弱者側になるかわからない――20代、30代の若者や子供だって、いつ事故や病気や災害で肢体不自由になるかわからない――なかで、弱者の希望を受け入れ、弱者に親切にすることは、未来の自分に親切にすることでもある。
社会的強者は医者に限らない。強者・弱者は相対的なものだ。五体満足の人間は肢体不自由の人間に対して強者であるし、法律、医療などの知識(教養を含む場合もある)を持つ者は、それらについて無知な者よりも相対的に強者だ。相対的であるということは、変化しうる関係であるということだ。相対的強者は、いつでも相対的弱者になり、逆もまたあり得る。
社会的強者は、自分がいま強者であることと、永遠に強者でいられるわけではないことの2つを自覚した上で、強者として弱者に向き合う必要がある。強者の行いは、決して、今現在の「強者である自分」から、「弱者である他人」への一時的な行為であってはならない。これから先、強者から弱者へ継続的に実行され、いずれ自分も実行される側に立つことを考慮して、実行に踏み切る必要がある。
そう考えると、「Aケア」は今後継続的に強者から弱者へ実行されるにふさわしい行為だっただろうか? 新しく発見した方法が、なぜ今まで実行されてこなかったのか、考えた方がよかったのではないだろうか。強者から弱者への力の行使は歴史的に繰り返されている。弱者のためになると考えて始めた事業が、弱者を追い詰めていないだろうか?
自分が持つ力を自覚して、弱者に対する姿勢を日々顧みていなければ、いずれ自分が追い詰められる側になる。
強者が追い詰められる時というのは、弱者になる時に限らず、加害者として糾弾される時も含む。
強者が容易に加害者になってしまうことは、羽をむしった蝶を友達に見せていた少年時代のことを報道されて、そのとき初めて蝶の羽をむしったことを思い出した場面に強く表れている。加害者は、自分が加害者であることをすぐに忘れてしまう。後になって自分が加害者であることを目の前に突きつけられてようやく、自分が加害者であることを知る。
主人公は蝶の報道を見たあとすぐに、妻に「自分が君に何か嫌なことをしていなかったか」と尋ねる。主人公はこのとき、自分が他人に無意識に加害を行なっていた可能性を考えている。これがきっかけとなり、「Aケア」もまた加害のひとつなのではないか?と考え始めて、主人公は自責の念に駆られていく。確かに僕は強者であったが、その力を他者を傷つけることに使ってしまったのではないか?
我々は社会的強者ではないか? その力を誤って使ってしまっていないだろうか? 相対的強者として、我々はその場において強者であるという自覚を持って、常に自らの行いを顧みなければならない。