夢と映画日記

どちらも見聞きしたことを語るうわごとにすぎない

映画『開戦前夜』感想

 日米開戦の8か月前に当時の日本最高の頭脳が集められて「もし日米が対戦したら日本はどう戦うべきか」を話し合う。日本で産出可能な資源や労働力を調べ、外国のそれと比較検討した結果、日本のハード面は圧倒的に弱いことが分かる。

 

 すでに敗戦した後にいる我々からすると明らかなことではあるが、それでも1つ1つデータを積み重ねられていくと絶望が深くなる。

 特に絶望的なのは、この日本のハード面の弱さが、現代でも特に変わっていないことだ。加えて、与えられた予算は使い切らなければならないとか、作ったものは使わなければならないとか、悪い方のもったいない精神も存命だ。こんな精神性を持ってむやみに自衛隊の装備を増やしたら、「これだけ装備があるんだから使わなければ損だ」とか考え始めるんじゃないかと思ってしまう。

 

 研究所からの報告を受けて、東條は日本の国力が絶望的だと分かっていた。東條が心の拠り所としている天皇も、平和を望んでいる。しかし開戦へ向かってしまった。軍部が煽ったこととはいえ、今更好戦的な姿勢を覆すことに恥と外聞を気にしてしまったのかもしれない。やたら恥や外聞に囚われる様子が描かれていたし、日本人ってそうだよなと思う。

 戦えというのも民だし、戦うなというのも民だ。板挟みで疲弊してもいたと思う。もう何も考えたくなくて、そのままいってしまった。誰も止めてくれなかった。

 責任の所在がずっと曖昧だ。予算があるから。物資があるから。その予算や物資を用意したのは誰なんだ。誰が要求したんだ。誰が戦えと言ってるんだ。戦争は誰の利益になるんだ。

 模擬内閣の人々は忌憚のない意見を出し合って物事を変えようとしているのに対し、実際の内閣は意見を翻す=予算が減額される=担当省庁の身動きがとれなくなる、だから、のらりくらりと意見を出すのを避けていった結果、誰も間違いを指摘してくれない無責任な内閣になってしまった。

 

 一方現代は国民主権の社会で、国民に権利と責任がある。責任があるなりに現実を直視して、日本最高とは言えないけど頭を絞ろう。空気じゃなくてデータを読んで、間違っていることは間違っていると言おう。でも自分の感情の動きだけで物事の正誤を決めてはならない。あくまで事実に基づいた議論をしたい。

 「この研究所では自由闊達な議論をしてよし」と言われたとき、エリートみんながやる気に溢れて立ち上がったのがカッコよかった。ああなりたい。喜んで自由闊達な議論をして、事実から未来を作りたい。

 実証主義の精神で現実的な未来を計画したい。理想は高く掲げたいけれど、その理想を実現するために動き出した後に実現は絶望的だと分かっても、引き返せるようでありたい。

映画『アン・リー はじまりの物語』感想

 現代に残る2名の信徒がどういう思惑でこの映画に協力しているのか分からないが、この映画はシェイカーという宗派のはじまりの物語であり、現在シェイカーが終わろうとしている、という意味で終わりの物語でもあると感じた。

 

 シェイカーの第一印象は邪教だった。身体を震わせながら金切り声を上げたり歌ったり叫んだり、家のなかで大人数で踊り回って、自分の「罪」を告白し、「罪深い」自分と向き合う。日本にはほとんど広まっていない信仰の仕方だったから、私には邪教と映った。宗教ってもっと静かで穏やかなものじゃない?

 それに、布教の仕方があまりに強引だったので、迫害されるのも当然ではないかとすら思った。植民から間もないアメリカだとしても、そこにはすでに村があるのに、村のなかにシェイカーの施設という「村」をつくろうとしたら、それは侵略同然の行いで、反発をくらうものだ。

 性行為の全面禁止と労働の奨励がシェイカーの主な規則だが、これを全世界に広めると人類は滅亡する。村社会の男たちの愉しみ(嫌味で言っている)も滅亡する。シェイカーの理念に共鳴する、全ての村がシェイカーになる必要はないし、逆にシェイカーが圧殺される理由もないわけだが、シェイカーがズカズカ踏み込んでいったから余計に迫害されたのではないか……と思った。

 現代日本で高みの見物をしているから言えることかもしれないが、住民から反発をくらった理由を考えて、シェイカーの活動形態を村社会に溶け込めるように調整するべきだったのではないかと思う。

 でもアン・リーにとってシェイカーの活動は自分と他人の救済であり、自分とシェイカーへの迫害は内省を促す薬ではなく、自分を試す苦難でしかない。アン・リーは信念という名の強情を突き通すしかなかった。

 アン・リーの生涯は悲惨なもので、それを救ってくれたのがシェイカーだった。面前での両親の性行為というDV、度重なる子どもの死、夫の無理解などから性行為への嫌悪感を強め、精神病院に入院するも、シェイカーの仲間に請われて社会復帰する。シェイカーの活動が彼女の悲惨さを、原罪に対する罰や試練の枠組みに落とし込み、彼女を救った。

 いや、実子4人が4人とも生後1年未満で亡くなっているのは3人目辺りからさすがに育て方が下手なのではないかと思ったが、自分に原因があるとは考えていなさそうな点で、当時の社会の衛生観念などに原因があったのかもしれない。

 アン・リーの逸話は凄かった。国教会に乗り込んでいって強引にシェイカーの話をし始め、当たり前に教会を追い出されて裁判にかけられる。その裁判の席で12か国語か72か国語を話したとか、独房で衰弱していたら今までになくはっきりと宗教的幻覚を見たとか、あまりにも逸話らしい逸話なので、キリスト教の逸話のセンスってどの宗派も同じなのかもしれない。

 なんで同じ神を信仰して同じような逸話を持っているのに宗派同士で争ってるんだ。信仰の仕方の違いしかないじゃないか。メソッドが違うだけで仲違いする必要なんかどこにあるんだ。箸を使ってもフォークを使っても、ご飯が食べられたら何でもいいのに、信仰はそんなに柔軟じゃないらしい。その信仰の仕方じゃないと救われない、という人が多いのかもしれないな。

 

 本作を観てシェイカーのあり方、ひいてはキリスト教のあり方に疑問を持つことになってしまった。しかし、疑問があるとしても、宗教によって救われたい人がいて、実際救われていて、そこから引きずり出すことが本人にとって救いではないなら、放っておいたほうがいい。

 今まで社会に苦しめられてきた女性たちも、シェイカーが来たことで救われただろう。実子を殺すことを考えてしまう、と告白していた女性は、シェイカーに出会わなければ本当に子殺しをしてしまっていただろう。

 酒や、薬や、人間や、ゲームや、その他様々なものへの依存と、信仰は似ている。人は何かから救われるために、何かに依存する。依存先から出ていきたい人間を手助けすることはできるが、出ていきたくない人間を無理やり外に連れ出すことはできないし、する必要はない。無理やり現実を見せつけるより、勝手に救われていてほしい。

 シェイカーも、ほかの宗派も、必要とする人がいる以上、めげずに活動を続けたほうがいい。逆に言えば、現在、信徒が大いに減っているけれども、信仰によって救われなければ生きていけない人が減っている、ととらえれば、よいことと思えるのではないだろうか。

 私が、宗教が組織立っていない世界に生きている人間だからそう思うのだろうか? 組織のなかにいたら、自分が住んでいる世界の崩壊のように感じるのかもしれない。

映画『NEW GROUP』感想

集団行動ってなんか怖いよね、を突き詰めたら、宇宙的恐怖に到達しました。みたいな。

日本人に浸透している集団主義が行き着く最悪の未来予想図。みたいな。

何を観せられたんだろう?と思った。でも、ここで思考停止しない方がいいんだろうなとも思った。

IとYOUの物語とか、集団と個人とか、二項対立で考えるとこの問題は解けない。作中では愛によって集団主義を打破したかに見えたが、本当には集団から個人を解放できていない。愛はたしかに個人間で生まれるが、集団を作る媒介であり、外部から与えられた愛によってある集団が崩壊したように見えても、それはその愛を中心に新しい集団を作ったにすぎない。

それを踏まえると、この映画で描かれる愛が、集団に対抗する手段として美しく描かれるんじゃなく、個々人の執着心としてキモく描かれていて、良かった。匂いが好きとか、あごの形が好きとか、個人から個人への愛って個性があって、自分と他人の考え方の違いが浮き彫りになって、相手のことをキモいなと感じる。でもそれがいい。当事者以外にはキモく見えるくらいの方が、本物の愛だと思う。

 

コズミックホラー(事件の発端に宇宙からの信号がほのめかされていたから、コズミックホラーと言っていいと思う)的な部分としては、20段もある人間ピラミッドというのは普通に怖い。質量が持つ有無を言わせぬ圧迫感が恐怖を生む。人間で作られているのに、人間の理解を超えた物体になっている。人間の理を超えてしまったという、神への負い目とでも言えそうだが、超越的なものに対する恐怖がある。

そうしたらその人間ピラミッドが青い光線をカッと放つから爆笑してしまった。緩急が凄い。宇宙に信号を発信したのかもしれない。ちゃんと怖いのに、なぜか笑えてしまう。理解を超えると笑ってしまうのかもしれない。

愛で生まれた新たな集団が人間で球体を作って、人間ピラミッドにぶつかっていくところも、接触した途端にカッと発光したから面白くて仕方なかった。同時にとても怖かった。宇宙規模の何事かが起こっているような現実感のなさ、しかし作中世界では確かにいま起こっていることなのだ。

最近ずっと『クトゥルー神話傑作選』を読んでいるので、「古きものら」の姿が本当は人間の集合体だったりしたらおもろいかもしれないと思って現実逃避していた。

 

私が観た限り、個人と集団の対立を描きたいわけではないように思えた。家族が大切じゃない人がいる一方で、家族が大切だけどその分負担に感じる人もいて、どちらが良い悪いという話ではない。

人間ピラミッドに取り込まれた生徒のなかで、いじめられていた女子生徒が、「ここに来てよかった。私を守ってくれるもん」と言っていた。集団のなかで統一されてしまえば、いじめっ子もいじめられっ子もいなくなる。無個性でいることに安心感を覚える人がいる。集団主義が一律に悪いものというわけではないのかもしれない。

作中で言っていたように、二項対立や二等式ではなく、「○=□=△」となるような、三項対立・三等式を考えていけば、人間はもっと発展的な考え方をできるんじゃないだろうか。個人と集団と、もうひとつ。そうやって考えていけば、二項の間にある中間的な様式を常に用意することができるようになる。シーソーのバランスをとるように、二極のバランスをとった三極目を選んでいく。人類にできるだろうか?

 

映画館で映画を観ると、「何を観せられたんだろう?」とフリーズしてしまうことがよくある。家で観る映画ではあまり起きない。その前に再生停止しているからだ。

でも、面白さがよく分からない映画を投げ出さずに最後までちゃんと観たときの「何を観せられたんだろう?」という感覚は、結構いいものに感じられる。このとまどいを楽しみに映画館に行っている気がする。

今回も、わけが分からなくて、よく考えてみたら面白くて、でもやっぱり分からないかもしれない、その分からなさも含めて面白いような作品に出会えてよかった!

映画『廃用身』感想

 個人的には、作中で語られている「Aケア」(四肢切断)は、身体的な苦痛を和らげるために本人の同意を得て行うという点で、安楽死に似ており、むしろ安楽死以上に現実的な(現実世界で実行可能に見える)ケアだと思う。不要な四肢を切断して身体が軽くなれば、確かに残った身体でできることが増えるだろうし、被介護者の体重減による介護者の負担減は介護者にはありがたいことである。

 しかし、安楽死に似ているということは、安楽死と同様の問題点がいくつかあるということであり、それらは解決することが難しい。

 以下にあらすじと、作中の印象的なケースを2つ挙げる。以降で折に触れてこれらのケースについて検討していく。

※簡略化して記載しているため、実際の作中での描写とは多少異なる。

 

・あらすじ

 『廃用身』では、麻痺等によって動かなくなり、リハビリ等による改善の見込みがなくなった四肢を、本人の同意をもとに切断する。この四肢切断手術を「Aケア」と呼ぶ。

 四肢切断によって、本人の身体の総量が軽くなり、介護者が本人を持ち上げる際などの負担が減る。さらに、四肢切断との関連は不明ながら、本人の発語や認知機能に改善が見られた。いいことずくめのように見えたが、身体が軽くなって頭も回るようになったおかげか、本人が自分を虐待する介護者を殺害して自殺(ケース1)したり、自分が生きているだけで他人の迷惑になってしまうということに気づいてしまって自殺したり(ケース2)する。

 「Aケア」を実行した主人公は、四肢切断というショッキングな行為や、「Aケア」を行った者が起こした殺人事件などへの社会からの批判を浴び、自分の行っていることが社会のためになっているかどうか自信が持てなくなって、自分自身の頭も「廃用身」なのだと考えて自殺に至ってしまう。

 

ケース1

 作中では第一例として挙げられている。脳梗塞によって両足と左腕が麻痺し、今後動くようになる見込みはない。介護者である家族から日常的に虐待を受けており、このままでは殺されてしまうと感じている一方で、虐待を受けてもなお自宅で生活することに固執しており、四肢を切断することで今後の生活を身軽にしようと考え、実行する。

 当初は体調が改善し、気分もよくなったと語るものの、介護者からの虐待は止まず、最終的には介護者を殺害して自身も自殺してしまう。

 

ケース2

 認知症の母親の介護に苦しむ女性が、母親が両足を火傷したことをきっかけに、親の両足の「Aケア」を希望し、実行された。両足を切断された本人(母親)は当初、ショックにより認知症が進行したように見えたが、徐々に認知機能に改善が見られた。

 しかし、最後には、認知症であったことが信じられないほど明瞭な文章で遺書をしたためて、「自分が周りに迷惑をかけ続けてしまっているから、死ぬしかない」と書き残して自殺してしまう。

 

 「Aケア」はその方法が安楽死に似ているだけでなく、実施に伴って表出する問題も安楽死と似ている。

 以下に問題点を3つ述べたい。問題に対して答えを出したいわけではないから、安易に目についた点を列挙しているように見えるかもしれない。

 でも、これらの問題をどう解決したらいいのか考えることには意味がある。それは四肢切断や安楽死の是非について考えるだけでなく、現実に起きている医療・介護業界の問題について考えることでもあるからだ。

 

・問題点1:本人の同意が不確実であること

 本人の同意なく実行されたということになってしまえば、「Aケア」はサービスではなく傷害罪に問われる。そして、作中でも語られているように、高齢者はその場の押しに流されて同意してしまうケースが多々ある。「自分の身体が不自由なせいで、家族や介護者に迷惑をかけている」という負い目が、本人の正常な判断能力を欠いてしまっていると考えられる。

 実際に、主人公がケース2の認知症患者の遺書を聞く場面で、その遺書には「本当は両足を切断したくなんてなかったのに、周りに勧められて、同意してしまった」という一節がある。

 また、本人が意識障害等によって同意を得られない状態にあり、配偶者の同意で四肢を切断したケースがあった。配偶者は四肢を失った本人を見て後悔していた。主人公は事前に「四肢を切断して意識障害が改善するという保証はない」と説明したにも関わらず、配偶者が切断を強く希望したのだが、配偶者はその意思がなかったかのように「先生がもっと強く制止してくれれば切断を希望しなかったのに」と身勝手な後悔を口にする。

 同意したのは自分自身なのに、どうしてあとになって意見を翻してこちらを責めるのだろう? どうして切断前に「いやだ」と言えなかったのだろう? こうならないために、どうすればよかったのだろう?

 紙で同意書をとっておくとか? 本人の意思が固まるまで一定期間猶予を与えるとか?

 同意書を残しても、時間を与えても、後々になって「やっぱりいやでした」と言われてしまえば責められるのはケアを行った側だ。

 本人の同意を第一に考えるならば、介護や医療の現場では取り返しのつくケアしかできなくなってしまう。それでやっていけるのだろうか?

 

・問題点2:社会的強者から社会的弱者に対して行われる、一種の暴力の行使であること

 四肢切断が暴力の範疇にある行為であると考える人もいる。実際傷害罪に問われることである。ケアとして行われるものであっても、他人の身体を損壊する行為であることは変わらない。

 ケース1では、介護疲れから高齢者を虐待する家族が描かれていた。介護者は本人の要望に対応せず、そのせいで本人が粗相をすると、池に沈めるなどして体罰を加える。その他日常的な暴言や暴力、介護放棄が行われていたようだ。

 暴力、暴言、介護放棄は、介護者という強者から被介護者という弱者への力の行使である。被介護者に振り回され、心身ともにすり減らされる日々に疲れた介護者が、自己効力感(自分は自分の思いとおりの成果を出すことができると思う気持ち)を取り戻すために、自分を振り回す被介護者を虐待するという短絡的な方法を用いると考えられる。

 主人公に本人の四肢切断を提案されたとき、家族は積極的な姿勢を示した。自分たちが楽になるという見込みから同意したと考えられるし、自分が被介護者の身体について決定権を握っているという自己効力感を得たいがために同意したとも考えられる。どちらもあったのかもしれない。

 ケース2では、認知症の親の介護に苦しむ女性が、親が両足を火傷したことをきっかけに、親の両足の「Aケア」を希望し、実行された。女性は認知症の影響で攻撃的な性格になった親から、日常的に暴力を受けていた。親は足を火傷したことで肢体不自由となり、そのストレスゆえに女性への暴力がひどくなった。「Aケア」に同意したとき、女性のなかに、親に対する報復感情がなかったとは言い切れない。

 

・問題点3:本人の自殺衝動を助長する可能性があること

 人は誰でも、自分が他人に迷惑をかけることを嫌がる。日本人は特にそうだと思う。

 障害を持っていて介護者や家族に迷惑をかけてしまっている自分を顧みて、自分は不要な存在なのではないか、と不安に思う人は多い。そんなことはない、と介護者は言うけれど、心の底では邪魔な存在だと思っているのではないだろうか?と疑ってしまう。

 不自由な手足を切断することで、介護者の負担が減るなら、自分が周りにかける迷惑も減るということだ。こんなに嬉しいことはない。

 でも、手足を切断してなお、自分が不要な存在だと思ってしまったらどうしよう。

 不要な手足を切断してまだ迷惑をかけてしまっているということは、自分の全身が不要だということなんだろうか?

 ケース2の、「Aケア」以降認知症が改善した結果自殺してしまった女性は、認知症が改善したことで、正気の頭で「周りの迷惑になっている自分」を顧みて、耐えられなくなって自殺した。同様に、目に見える「自分にも他人にも邪魔な部分」を切除したあと、まだ迷惑をかけ続けているなあと思ってしまったら、ほかに「切除」できるのは自分自身の命だけだ、と考えてしまう人はいると思う。

 四肢を切断しなかったら、四肢を切断した今以上に迷惑をかけ続けるだろう。しかし、今のように「不自由な手足が迷惑だったのではなく、自分自身が迷惑だったのだ」と自覚しなくてすんだんじゃないだろうか?

 

 「Aケア」の争点は以上の3つに絞ることができると思う。

 

 あとは、作中で「Aケア」が非難を浴びたことについて考えたい。罪を犯したわけではないのにあのように非難されたのはなぜなのか?

 

・倫理上の問題というより、社会的感情によって規制される

 同意して「Aケア」を受け、満足している患者がいないわけではない。しかし、「Aケア」を受けた者のうち少数の者が起こした事件が、「Aケア」を受けた者全員の特性であると解釈されることで、社会は事件を起こした当人ではなく、「Aケア」を受けた者や「Aケア」を受けさせた者に非難の目を向けるようになる。

 一昔前の「オタク」の排斥や、それよりずっと前の大麻が非合法化された経緯と似ている。現実では、一部のオタクが起こした事件をオタク全体の問題と捉えたり、大麻使用者の一部が起こした問題の原因を大麻に求め、大麻の使用を規制したりしてきた(実際、大麻使用者が起こす事件はもとより、大麻を扱う反社会的な団体とのつながりを持つことで健全な社会生活を送れなくなることが問題であるから、非合法化すべきではある)。

 「Aケア」も同様に、四肢切断というショッキングな行為に対する生理的嫌悪と、「Aケア」を受けた患者が起こした介護者殺害及び自殺事件によって非難の声を浴びるようになり、「Aケア」全体が問題であると批判されるようになっていく。

 

・社会的強者としての自覚をもったほうがいい

 主人公は、「若く健康で医者としての知識もある自分は、身体が不自由でいつも不安で何もわからない高齢者に対して、圧倒的に強者だ」ということに気づいている。「高齢者は他人に迷惑をかけることを異様に嫌う」ことにも気づいている。だから、他人に迷惑をかけない方法として、高齢者に「Aケア」を考案した。

 強者から弱者へ手をさしのべることは、強者として生きる上では大切なことだ。自分がいつ弱者側になるかわからない――20代、30代の若者や子供だって、いつ事故や病気や災害で肢体不自由になるかわからない――なかで、弱者の希望を受け入れ、弱者に親切にすることは、未来の自分に親切にすることでもある。

 社会的強者は医者に限らない。強者・弱者は相対的なものだ。五体満足の人間は肢体不自由の人間に対して強者であるし、法律、医療などの知識(教養を含む場合もある)を持つ者は、それらについて無知な者よりも相対的に強者だ。相対的であるということは、変化しうる関係であるということだ。相対的強者は、いつでも相対的弱者になり、逆もまたあり得る。

 社会的強者は、自分がいま強者であることと、永遠に強者でいられるわけではないことの2つを自覚した上で、強者として弱者に向き合う必要がある。強者の行いは、決して、今現在の「強者である自分」から、「弱者である他人」への一時的な行為であってはならない。これから先、強者から弱者へ継続的に実行され、いずれ自分も実行される側に立つことを考慮して、実行に踏み切る必要がある。

 そう考えると、「Aケア」は今後継続的に強者から弱者へ実行されるにふさわしい行為だっただろうか? 新しく発見した方法が、なぜ今まで実行されてこなかったのか、考えた方がよかったのではないだろうか。強者から弱者への力の行使は歴史的に繰り返されている。弱者のためになると考えて始めた事業が、弱者を追い詰めていないだろうか?

 自分が持つ力を自覚して、弱者に対する姿勢を日々顧みていなければ、いずれ自分が追い詰められる側になる。

 強者が追い詰められる時というのは、弱者になる時に限らず、加害者として糾弾される時も含む。

 強者が容易に加害者になってしまうことは、羽をむしった蝶を友達に見せていた少年時代のことを報道されて、そのとき初めて蝶の羽をむしったことを思い出した場面に強く表れている。加害者は、自分が加害者であることをすぐに忘れてしまう。後になって自分が加害者であることを目の前に突きつけられてようやく、自分が加害者であることを知る。

 主人公は蝶の報道を見たあとすぐに、妻に「自分が君に何か嫌なことをしていなかったか」と尋ねる。主人公はこのとき、自分が他人に無意識に加害を行なっていた可能性を考えている。これがきっかけとなり、「Aケア」もまた加害のひとつなのではないか?と考え始めて、主人公は自責の念に駆られていく。確かに僕は強者であったが、その力を他者を傷つけることに使ってしまったのではないか?

 我々は社会的強者ではないか? その力を誤って使ってしまっていないだろうか? 相対的強者として、我々はその場において強者であるという自覚を持って、常に自らの行いを顧みなければならない。

映画『無名の人生』感想

 不思議な作品だった。アニメーションも声優も、多分他の作品に比べると随分拙いのだが、絵と声の拙さが同じくらいだったから、結果的に1つのまとまった作品になっていた。

 ストーリーはめちゃくちゃ面白かった。1人の男性が、せーちゃん、黒瀬、青木、クロ、麗人、神様、男性A、ZEN、あなた、人間、と様々な呼ばれ方をしながら生きていいく。でも彼の本名はかたくななほど誰にも呼ばれない。事故死した母が死に際に呼んだのが最後だった。

 名前が、その人の生きてきた時間や経験を、その人のもとに帰属させる。色々な名前で呼ばれるということは、色々な生き方をしてきたということだ。

 主人公は、小学生、中学生、アイドルの卵、ホストを経て、死に損ない、浮浪者、俳優、戦争により少数人のうちの1人、そのなかでもさらに特別な1人になり、最後は「人間」という種族として月を駆けて死んだ。

 みんなが頭に球状のカバーを被り始めたとき、みんな無名になるんだと思った。その球の中では、みんなに名前を知られている有名人や、名前は知られていないがその特徴によってみんなに知られているという意味での有名人が現れては消えた。みんな有名な人ではあり、球を被った人が顔が分からないから名前も分からず、誰にも、自分が誰なのか知ってもらえないのとは異なる。

 主人公は結局、誰にも、自分が誰なのか、本来何者であるのか、知ってもらえなかったのかもしれない。もしくは、ある名前で呼ばれているとき、それ以外の名前で呼ばれているときの自分を、知ってもらえなかったと言うべきか。こう言うと、当たり前のことのように思える。1つの名前が1つの人格を表し、別の名前は別の人格を表す。麗人として生きているとき、クロとして生きていたときのことは誰にも知られなかった。唯一、「麗人=クロ説」を信じた女が、主人公を喋らせることに成功し、「麗人=クロ説」を否定させた。違う名前の自分を、今の名前の自分は受容できない。1つの人格でい続けられなくなるからだ。

 かつての名前を呼ばれたら、その時のことを思い出し、その時の自分を取り戻す気がする。名前を呼ぶということは、その名前で生きてきた時間を肯定するということだ。主人公は多くの人に名前を呼ばれたこと、あるいは呼ばれなかったことを思い出し、最後に母の呼び声で、彼自身として死んだと思う。

 名前を呼ばれなかったということは、相手の生に自分がいなかったということだ。名前を呼んでくれるということは、一緒に生きてくれるということでもある。その名前で生きる時間を一緒に過ごすという約束、その名前で生きた時間を一緒に過ごしたという証だ。

映画『エミリア・ペレス』感想

 メキシコの麻薬王マニタスが性転換して、本当の自分の人生を生きようとする。全く自分に関わりのない世界の物語なのに、非常に強度の高い現実を感じた。

 「私の人生の幸せ」は、必ずしもありがちな「女の幸せ」と同じではない。エミリアは、自分が自分らしく世界に存在するために、まず既に存在している自分の肉体を消し去らなければならなかった。

 エミリアNGOに志願してきた元殺し屋が、悔恨の情の表れとして「このタトゥーを消したい」と歌っていたのもそうだが、新しい自分のあり方を示す方法として、世界に存在する物体としての自分の形を変えるということは、象徴的な行為だ。物質としての既存の自己の否定。

 でも肉体と同じくらい心まで完全に変化させることは、エミリアにはできなかった。むしろ、マニタスだった時の悪事の清算をするかのように慈善活動に没頭した。エミリアは、エミリアとして幸せで、マニタスは死んだことにしたかったはずだ。でも、そううまくはいかない。マニタスの肉体は消えても、マニタスとして生きていた時間と記憶はなくならない。エミリアは、エミリアとしての自分の存在を世界に確立させるために闘った。

 マニタスの妻ジェシーは、エミリアに嫌悪感を示し、危害を加えていたが、エミリアがマニタスだと分かって、急にエミリアを救おうとした。ジェシーは典型的な「女の幸せ」を追っていた。夫を愛し、今以上に男に求められようと演じ、演じるあまり自分を愛することを忘れる。でも、女として歩む自分の道に、一種の誇りを抱いているように見える。

 弁護士のリタは、女として意識できないくらい、ソクラテスのように痩せ細って頭と口がよく回る。リタは典型的な「女の幸せ」はおろか、「女の不幸」だけを味わい続けているように見える。映画の冒頭では勝訴の直後に生理が来たし、無遠慮に結婚や出産について聞かれて不快だと歌っていた。でも、リタが持つ幸福も確かにある。

 エミリアは、女性でありながら男性的な魅力も兼ね備えているが、リタはどちらも持たない。男性にも女性にも見えないのがむしろキャラクターとして際立っているという意味では、無性的な魅力があるといえる。男女の区別によるキャラ付けが通用しないから、リタはフラットな目線を持ち続け、作品のストーリーテラーになれる。

映画『シンシン』感想

 自分でない誰かを演じることが、自分自身の感情をコントロールする手がかりになる。演じれば演じるほど、役柄ではない自分自身の感情に気がつく。今まで感情が無軌道に生起するまま、ものを考える時間も取れずに生きてきた彼らが、演劇の役という道標を辿って、時間をかけて自分の感情を軌道に乗せ、更生していく。

 自分の中に生起する感情をありのまま読み取って、世界に対してその感情をさらけ出すほど、自分の心は傷つく。怒りでコーティングした方が、心は傷つかない。そうやって生きている人にとって、自分の感情と向き合うのは難しい。